2007年10月分
 
 猛暑一転、寒くなってきましたね。六甲山麓は、いまにも雪が降りそうです。
●10月1日(月)
 朝から雑用に明け暮れる。毎年、10月1日では遅すぎると思うのだが、何年たっても思うことは同じだ。進歩していないのだ。
●10月2日(火)
 朝から出校。夕方まで授業。
 久し振りに酒を飲まずに寝る。
●10月3日(水)
 朝から補修工事のやり残しで落ち着かず。
 午後から、会議だけのために出校。やれやれである。
●10月5日(金)
 本来なら研究日で家で原稿を書いているところなのに、入試関係の仕事で出校。早く年度末になってほしいものだ。
 夜、wowowで「ヒンデンブルク」という映画をやっているのを偶然見る。例のナチス・ドイツの造った飛行船の話だが、なかなか面白い。
●10月7日(日)
 夜、六甲「里夢」にてピアノ・トリオ演奏会。連れ合いがピアノ、ヴァイオリンが美人先生、チェロは大町剛のメンバー。宣伝行き届かず観客はやや少なめであったが、美人先生のファンのおじさんたちが開演前から花束を持って行列であった。
●10月8日(月)
 アマゾンで集英社新書のトップを走っている『時間はどこで生まれるか』に匿名の酷評(誹謗中傷である)が載りのけぞってしまった。反論するのも馬鹿馬鹿しいが、鵜呑みにする読者もいるかも知れないので、本月例報告の最後にその他の批判も合わせて分析を掲載させて頂くことにする。
●10月10日(水)
 学生の退学届けに判子を押すだけのために出校。やれやれである。
●10月10日(水)
 学生の退学届けに判子を押すだけのために出校。やれやれである。
●10月11日(木)
 夜、wowowで録画した「太陽」を見る。イッセイ・オガタ演じる終戦前後の昭和天皇の生活。イッセイの演技も素晴らしいし、ハリウッドでは作れないヨーロッパ人監督だからこそ作れたと感じさせる秀作であった。
●10月13日(土)
 神戸元町「アマデウス」で歌声コンサート。連れ合いの伴奏。「アマデウス」はマスターの引退に伴い間もなく店じまい。寂しいことである。
●10月17日(水)
 連れ合いと近くの「むら玄」でランチ。といっても、そばと熱燗。
●10月19日(金)
 入試関係の仕事のために出校。やれやれである。
●10月20日(土)
 東進衛星予備校、録画撮りのため上京。東京駅の階段で櫻井よし子を見かける。新幹線で有名人を見るのは久し振り。
●10月21日(月)
 連れ合いとmovix六甲で「グッド・シェパード」。3時間近くは相当疲れるが、さすがデニーロ監督、アクション映画などよりはるかに面白いスパイもの。ソ連のスパイを演じるデニーロがヴァイオリンを弾く場面は感動ものである。マッド・デイモンの演技も素晴らしい。
●10月27日(土)
 「芦悠館」で田尻洋一ピアノ・リサイタル。第3回である。演奏も終了後のパーティーも至福のひとときであった。
●10月27日(土)
 「芦悠館」で田尻洋一ピアノ・リサイタル。第3回である。演奏も終了後のパーティーも至福のひとときであった。
●10月31日(水)
 長編、構想もほぼ煮詰まり、ついに執筆を開始する。幸い、急ぎの原稿はなく、来年3月までは集中して書くつもり。しかし、完成はいつになるか定かではない。あ、これここだけの話ですよ。風呂敷を広げておいて、完成しないと恥ずかしいからね。
●『時間はどこで生まれるのか』批判の分析

 本書に対し、ネット上でいくつかの批判(というか、そのほとんどが匿名の誹謗中傷なのだが)があるが、それらを冷静に分析してみたい。
 まず、本書のどこがいけないのかを具体的に指摘した批判はない。「読者に対して自己責任を取れない本」などというのは、意味不明である。逃げているという批判があるが、どういう箇所がそうなのか、具体的に指摘がない。要するに、書き方が気に入らないという印象批評である。物理学は21世紀中に時間の謎を解き明かす、そんなことも知らないのか、という趣旨の批判があるが、それは考え方の違いであり、著者は、物理学だけでは時間の謎は解けないという立場である。素粒子論や宇宙論だけで時間の謎が解けるなどと考える方がおかしい。それは本書の中に書いたことである。
 具体的な内容について、ネットではなく手紙とメールのやりとりをある物理学者の方とした。面識はなかったが、宇宙論や量子論の専門書を何冊も書いておられる一線の研究者の方なので真摯に対応させて頂いた。その方より、115ページの「万有引力ではなく万有斥力」の下りは、アインシュタインの宇宙方程式が正しいとすれば、書き過ぎではないかとのご指摘を戴いた。納得できたので、第6刷において修正した(削除した)。読者の方から具体的指摘があったのは、この箇所だけである。
 哲学者からの批判もあるが、これらは本書の趣旨からずれた批判である。たとえば、ある哲学者の方が、ベルクソンを冒涜した悪書だみたいな批判をされているが、ベルクソンについて書いているのは付録の参考文献の所だけである。そこで、ベルクソンは時代遅れだが、それにもかかわらず本書の結論はベルクソンに近いと書いた。時代遅れというのが気に入らないのだろうが、ワトソンやドーキンスの生物学全盛の現代では、生物進化の観点から見れば、ベルクソンを時代遅れだということに間違いはないと思う。これはベルクソンを貶めているのではない。その他、哲学者の方の批判は、自分が心酔する哲学者が批判されると反発し、自分が支持しない哲学者を持ち上げると反発するというふうで、これでは政党や政治家批判とあまり変らない。
 物理学者からの批判は、内容ではなく、物理学者を揶揄した箇所が気にいらないという点にあるのは、明らかだ。博士号も持たない予備校講師分際が生意気にも物理学者を馬鹿にしたような本を書き、しかもそれが売れているというのが気にいらないのだ。揶揄したのは事実である。「私はPh.D.を持っている偉い科学者であり、君たちには私の研究は理解できるはずはない」というスノップな学者がぼくは大嫌いである。ぼくはつねに素人の目線で文章を書く。それが基本方針である。物理学は難しくない、教え方が悪いのだ、というのがぼくの考え方である。それでも、本書をヂンプンカンプンだという人もいる。そういう声には反省する。真に優れた学者は、本書を罵倒などしないだろう。これは論文ではなく一般の人向けの教養書である。
 最後に、何度も書いたことだが、まだ多くの人には理解されていないようなので強調しておくが、本書はかつて誰も書かなかった時間論の本であることは事実だと思う。物理学の部分については、物理を知っている人なら常識である。主観的時間がどうして生まれるのか、その謎について本書以上に説得力あるアイデアで書いた本があったら是非紹介してほしい。ぼくは外国語の本について調べたことはないが、おそらくそんな本は皆無だと思う。それだけは自信がある。
 長文になりましたが『時間はどこで生まれるのか』の批判分析と致します。
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