「久美沙織伝説」その1(デビュー!!)
表紙拡大画像   1979年『小説ジュニア』四月号、デビュー作品掲載号です。
 小説ジュニアは雑誌『コバルト』の前身です。
 読者としてのわたしは、小学6年生ぐらいから読んでいましたからデビュー時点で「七年」の読者歴を経ておりました。
 デビュー作『水曜日の夢はとても綺麗な悪夢だった』は1978年、大学一年生の夏休みを利用して書いた作品でした。
 応募も発表も「山吉あい」名義です。
 掲示板のどっかに書いたとおり、この名前は、母の旧姓+本名稲子のイニシャルです。
 小ジュ(小説ジュニアのこと)は78年、「サイズ・テーマ等無制限」で原稿を募集、応募作品はかならず編集部が目を通し、なんらかの批評くわえて返却する、という若き一読者のわたしが見ても無謀きわまりない企画をブチたてました。
 大学一年、特にすることもない久しぶりの「ほんとうの夏休み」(小学四年から長い休みはほとんど全部受験勉強してましたから)根の貧乏性なわたしは、自らにこの「宿題」を割り当て、作品を書き上げました。
 半年ほど載っていたくだんの無謀な「原稿募集」のお知らせが、ある時からパタッと紙面に載らなくなって「やっぱなぁ、無理だと思ってたんだよ」と苦笑いしていたある冬の日。
 たしか78年の年末近くだったかと思いますが、小ジュ編集部からハガキが一枚届きました。
 速達の赤いハンコがついていて、知らない名前が書いてありました。
 「あなたの作品を掲載したいと思いますので、一度編集部にきてください」
 
掲載ページ拡大画像
初登場につき、著者紹介
 その頃わたしは阿佐ヶ谷の修道院付属女子寮に暮らしていたのですが、「やったー!」と叫びまわったので、寮生40数名、シスター7名のうち、その時間帯に寮にいたひとたちの何人かがなにごと? とばかりに駆けつけてきましたです。(わたしがそんなふうに叫んでみんなを呼び寄せてしまったのは地下のお風呂場の掃除当番をしていて、巨大ゴキブリに足に乗られて絶叫した時以来です)。
 叫んだものの、すぐに心配になってきました。
「嘘じゃないかしら。悪いひとがだまそうとしているんじゃ?」
 なにしろ、小ジュには、エッチなお小説(富島健夫先生が代表)とか、エッチな体験記とか、山ほど載ってたぐらいで……。
 とりあえず、親にも電話で相談し、シスターにもはげまされ、勇気を出して編集部にいってみることにしました。
 万が一わたしが香港などに売られたときには助けにきてねとみんなに頼みつつ。
 編集部というところにいってみると、初代担当になった辻村さんは風貌こそむさくるしかったですが、やさしい親切なかたでした。
 わたしの原稿がもうちょっとでゴミ箱に捨てられるところだったと話してくれました。(全部批評して返却するはずじゃなかったの? と思いましたがその頃のわたしにはオトナ相手にそんなことを鋭く追求するような根性はありません。いつ、クロロフォルムを嗅がされるかと、怖くてたまんなかったんですから)
 わたしは原稿を全部4Hの鉛筆で、しかも、横書きにしていたのです。
 いちおーコクヨの原稿用紙を使ってましたが。ひごろノートに思いついたものを書き溜めてるのと、なるべく近いほうが、書きやすかったので。鉛筆じゃないと間違った時になおせないし、HBとかの濃さのだと、こすると汚くなるのでいつもどおり、かたいのをつかったんですね。
(応募要綱には「原稿用紙」を使うこと、としか書いてなかったと思います。
 要綱は完璧に守った記憶がありますから。辻村さんは「原稿はタテガキが常識!」とおっしゃいましたし、たしかにその通りでしょうがそんなこと知りませんよ、あの頃のしろうとは。
 ひょっとすると編集部は、世の中に横書きの原稿用紙というものがあるということを
ご存知なかったんでわ……と思いましたが、逆らう気力は、以下略)
 そのような「読みにくい」原稿をひとめ見たとたんに、誰かはゴミ箱に捨てたのですが宇田川さんとおっしゃる年配の女性編集者が、ふとゴミ箱に目をとめて、なぜかわたしの原稿に「ビビビ」と来るものを感じてくださったのだそうです。でもって、読みにくいのを苦労して読んでみたら「あら、いいじゃないのコレ」だったらしいです。(ちなみに宇田川さんのお嬢さんはいまたぶんコバルト編集部におられます)
 よってわたしの小説家としての最初のシゴトは、この原稿を「縦書きで、濃いペンで書き直す」ことでした。