「久美沙織伝説」その2(デビュー直後)
『小説ジュニア』'79/8月号表紙画像その他資料
青春小説新人賞佳作
『プラ ラブ チャ』掲載誌
1979年8月号
同誌内容にリンク
 またタイトルはもともとは『水曜日の夢はひどく綺麗な悪夢だった』だったのですが「ひどい」という形容詞をこういうところにつかってはいけないとお叱りをうけて「とても」に変更させられました。
 ワカモノの当時の言語感覚だとここは「ひどく」がバッチリだったんですが……。
 もちろん、へたなことを言ってデビュー取り消しになっちゃいけないので、以下略。
 よってわたしがのちに新人賞に応募するひとたちに真っ先に言ったのは「読みやすい(文字面をおいやすい)原稿を書くこと」でした。
 読んでもらえないことには、どんないいのを書いててもダメですから。
 ワープロでも、印字をよーく工夫するべきであるのは同じです。
 かくして短編デビューしたわけですが、すぐに「青春小説新人賞に応募するように」と言われました。きっちり賞を取らないと、売り出しにくいからと。
 しかし次にかいたものは、あいにくと賞はとれませんでした。
 田中雅美ちゃんのとわたしのと二作とも「佳作」で、「入選なし」だったと思います。
 プロになって20ウン年、わたしはまだただのいちども、いかなる賞もいただいたことがありません。
 そんなやつが「新人賞の獲りかた」を教えていいのか、時々自分でも疑問になりますが。
 かの、無謀きわまりない企画には、案の定当時としてはものすごい数の原稿が殺到したらしいですがゴミ箱にいかずにすんだのは、このわたしのと、あともうおひとりのだけだったらしいです。しかもそのかたは、小説家にならなかったので、かの企画の「収穫」はわたしただひとりです。
 幼少の折から「世界の少年少女名作文学」のリライト本をやたら読んでいたわたしが自分を一種の「孤児」だと錯覚するのにこれは充分な境遇でした。いわゆる「橋の下から拾われた」実感というか。あしながおじさん(作文で拾ってもらうんだし)や、赤毛のアン(夢見がちな女の子が、口八丁で世の中をわたっていくし)はもちろん王子と乞食だの、ディビッド・カッパーフィールドだの、「アニー」だの、こどもが世間の荒波にもまれるのは、みんな、なんだか他人ごとではありませんでした。 
拡大表紙画像
1982年11月15日初版
 なにしろ、繰り返しになりますが当時わたしがいたのは他ならぬ修道院付属女子寮。
 当時の女子大生としては、信じがたいほど規則正しく質素な生活をしておりました。
 そこからひとりだけ「お金持ちのオジサマ」に呼び出されたのはいいが気にいってもらえないようなことをしでかしたら、すぐにまた返されるに違いない……
 このかりそめの境遇にすっかり「ハマッ」てましたねぇ。
 のち、小ジュがパーティーなどをするようになって、他の作家の先生がたと出会っても当時はまだ若いひとが少なかったこともあり(氷室冴子先生は既におられましたが、あのかたは最初から風格漂わせておられたし)
 自分だけ、その場にはふさわしくないような気がして「ほんとにここにいてもいいのかどうか」ずっと不安だったです。
 新井素子ちゃんの紹介でエスエフ系の若手のかたがたと知り合えた時にはだから、とっても嬉しかったです。
 『水曜日の夢はとても綺麗な悪夢だった』は、文庫本『プラトニック ラブ チャイルド』に収録されています。
収録作品は
「水曜日の夢はとても綺麗な悪夢だった」……デビュー作
「プラトニック・ラブ・チャイルド」……デビュー作の続編。青春小説新人賞佳作
「ダーティー・チェリー・ブルース」
「拝啓、よびすてごめんなさい」
「夢色オルゴオル」
「みぃつけた」
「雨少年 Rainy Boy」……書き下ろし
最後の以外はたしか小説ジュニアに載せてもらったものなはずなのですが文庫に「初出」がのってないっす。
そーゆーのは編集さんがいれてくれるもんだと思っていたら載らなかった(笑)
奥付をみていただければわかるように、文庫本になるまでにはかなり年月がかかりました。
 当時は新人の最初の文庫が出るまでには、何年もかかるのが「あたりまえ」でした。
 編集さんが何度もダメだしをして、書いたものをボツにして突っ返すのです。
 わたしも大学の授業のほうを優先させていたし……
 いま、新人賞の大半は長編で、賞とれたとたんにそれが単行本あるいは文庫本になるのはまだしもほとんど全員すぐに「受賞第一作」の長編を書きあげるのが、わたしには不思議ではなりません。
 それだけの「即戦力」がないと、デビューもさせてもらえない……ということなんでしょうね。